1612年に安井道頓(やすい・どうとん)が私財をなげうち、南堀河の開削に着手しました。
大坂夏の陣で道頓は戦死しましたが、大坂城主松平忠明の命で従弟の道ト(どうぼく)が工事を引き継ぎ、1615年に運河が完成、開削者・道頓の功績を後世に伝えるため、「道頓堀」と名付けました。
その後、江戸幕府が大坂を直轄領とし、市街地の拡張策をとった時から道頓堀の町づくりが始まります。1619年、安井九兵衛が大坂三郷南組総年寄となり、1626年頃、芝居小屋を道頓堀に移転させたことにより道頓堀が芝居町となっていきます。道頓堀南岸は芝居小屋が次々と公認され、歌舞伎、義太夫、見世物などの小屋が並んで栄え、五座の櫓(やぐら)が立って賑わい、櫓町と称される芝居町になりました。
さらに、芝居の切符の手配や飲食の提供で見物客をもてなす芝居茶屋が周辺に軒を連ね、いわゆる「いろは茶屋」が誕生しました。
17世紀後半には、中座、角座、浪花座などの名劇場がオープンし、歌舞伎がブームとなる一方、人形浄瑠璃の竹本座(1684年)や豊竹座(1703年)もオープンしました。
近松門左衛門(1653~1724年)は日本最大の劇作家とも、東洋のシェークスピアとも呼ばれ、「曽根崎心中」をはじめ「冥土(めいど)の飛脚」など歌舞伎脚本30余編、浄瑠璃100余編を残し、その大半が竹本座など道頓堀で初演されました。竹本座では近松亡き後も「義経千本桜」「仮名手本忠臣蔵」など今に残る名作を多数生み出し、歌舞伎に決定的な影響を与えたと言われています。
江戸時代から、江戸三座・浪花五座といわれ、道頓堀の弁天座・朝日座・角座・中座・竹本座(浪花座)は名実ともに演劇・演芸界を代表する劇場であり、それを取り巻く多くの中小の「小屋」がありました。さながらブロードウェイのように劇場が寄り集まり、一流を目指す芸人にとって、「道頓堀」は憧れの晴れ舞台でした。
現在では、残念ながら中座など閉鎖された劇場もありますが、人形浄瑠璃は国立文楽劇場、歌舞伎は松竹座、演芸は再開された角座、なんばグランド花月など、道頓堀をはじめミナミは今でも演劇・演芸のメッカであることにかわりなく、連日多くの観客で賑わっています。
道頓堀五座のCG(関西大学 大阪都市遺産研究センター)
上海から入ってきたジャズが大阪で流行し、宗右衛門町や道頓堀にダンスホールとジャズスポットが立ち並び、カフェなどでも演奏され、アメリカ、イギリス、フランスなどの白人・黒人ミュージシャンが演奏をしました。お客はミナミの旦那衆で、お連れは芸妓や花街の人、カフェの女給などでした。
昭和のはじめには、宗右衛門町の河合会館の館主、河合宗那(かわいそうな)が「河合ダンス」という芸妓ばかりのレビューをはじめました。
戦後もジャズの伝統は続き、戎橋詰めにあった「サイト・ハウス」は戦後最古のライブ・ハウス。この平屋建が昭和35(1960)年に「吉本ビル」になり、2階の喫茶ルームで1階ステージの生演奏が聴けました。吉本興業の本社は「吉本ビル」に移り、ホールは「心斎橋二丁目劇場」に改称、お笑い新人の登龍門となりました。その後、阪急東通り商店街にあった「レッド・アロー」が、大阪のジャズの殿堂にとってかわり、今はお初天神通り商店街にある「ニューサントリー5」が大阪ホットジャズの基地となっています。
道頓堀といえば、ひときわ目立つ巨大な看板。来たことはなくても、テレビや雑誌で見たことのある方は多いと思います。
道頓堀川をのぞき込むように立つ、大きく手を広げる『グリコ』の看板。2014年秋、6代目としてLED映像でリニューアルしました。その他にもかに、いか、たこ、牛までも・・・、立体造形の巨大看板は道頓堀のエネルギッシュなパワーを象徴しています。
さらに・・・、「チン・ドン」と鐘と太鼓をならす「くいだおれ太郎」は、みんなが一緒に記念撮影をしたくなる人気者。「二度付けあかん」と唸る串カツ店のオヤジなど、喜怒哀楽さまざまな表情で皆さんを迎えてくれます。道頓堀はまるで人形のテーマパークのようです。ぜひ、カメラを持って遊びに来てください。
巨大な看板が立ち並ぶ道頓堀。
昔から東京は「履き倒れ」、京都は「着倒れ」、そして大阪は「食い倒れ」といわれます。「食い倒れ」を辞書で見ると、『飲み食いに贅沢して貧乏になること』とあります。大阪の人は食べることにとても熱心で、食材に凝り、捨てることをせずに無駄を出さない料理をします。 昔の大阪湾は潮の流れが急で、それを象徴して「難しい波」=「難波」と書きました。「難波」は、「なんば」と読みますが、別の読み方では「なにわ」とも読み、「魚庭」とも書きます。大阪の海では昔から鰯が大量に取れ、それを餌にする魚が鰯を追って大阪湾に入ってきました。
野菜では、泉州地方でしたら水茄子、玉葱、里芋などがあります。河内地方なら千両茄子、紅ずいき、空豆、石川小芋、海老芋などが特産です。
大阪は瀬戸内の温暖な気候や肥沃な大阪平野、淀川、大和川の豊富な水にめぐまれ、野菜類・米麦を作るには大変適していました。このように大阪と大阪近郊は食材の宝庫でした。
大阪の食文化の特徴を一言で表現すれば「薄いけど味がある」です。「出汁(だし)」が料理をする際の大きなポイントになるからです。
大阪は、「天下の台所」といわれていたように、北海道の昆布、土佐の鰹節等など全国からさまざまな食材が入ってきました。大阪湾では片口鰯が豊富に取れましたから、それこそ新鮮な鰯で作った煮干しが安価で手に入りました。
大阪の食べ物が美味しいのには、もう一つ理由があります。
大阪で使う醤油は、薄口醤油です。薄口醤油は濃口醤油よりも香が控えめで、色も薄いので、素材の本来の持ち味や見た目の色を重要視する大阪では重宝されました。
また、大阪の周辺には、灘・池田など良質の酒が豊富に作られていました。料理にお酒は欠かせません。お酒に合う料理、料理に合うお酒と相互に質の高いものになりました。
大阪では、料理は「目で食べる」といわれます。美味しく、かつ見た目に美しくなければいけません。そのための条件が、昔から揃っていたのです。
◆一寸法師
道頓堀川は、一寸法師がお椀に乗って出発したといわれている土地です。
今では若者が飛び込む川として有名になっていまいましたが、歴史ある場所のひとつです。
法善寺横町の復興を祈って、道頓堀川で個性的なお碗に乗って競う イベントも開催されました。ネオンきらびやかなだけじゃない、川風涼しい道頓堀川のほとりで、昔々のお話を思い出してみませんか?
◆一寸法師のお話
むかし、ある村に、おじいさんとおばあさんがいました。二人は働き者で、なかのよい夫婦でした。
けれども、どうしたわけか子供がありませんでした。
それでいつも話すことと言えば、「なあ、おばあさん。ひとりでいいから、子供がほしいなあ」
「ほんとにそうだね」ということばかりでした。
とうとう、「ふたりで神様に願かけしてみよう」と言うことになって、それから毎朝お宮へお参りをしました。
「神様、どうか、子供をさずけて下さい」
おじいさんとおばあさんは、お宮の鳥居のところで 一休みしているうち、うつらうつらとねむってしまいました。
すると、夢に真っ白いひげの神様が現れて、言いました。
「鳥居を出ると、小さな子供が待っている。その子を育て子にするがいい。」神様はそう言ったとたん、おじいさんもおばあさんも 目がさめました。
おじいさんとおばあさんは、すぐ鳥居から出てみました。するとむこうから、ドングリの実くらいの小さな男の子がやって来ました。
おじいさんとおばあさんは、その子を連れて帰りました。
ふたりはその子が一寸にも足りないくらい小さいので、「一寸法師」と名づけました。
そして、 いつもあずきごはんに魚をつけて、たくさん食べさせました。
おかげで一寸法師は、体は小さくても元気に育ちました。
ある日のこと、一寸法師は「都に行きたい」と言いました。
おじいさんもおばあさんも驚きましたが、「それもよかろう。」と言って、承知しました。
そして、一寸法師は、お椀の舟にのり、道頓堀川を伝って京へ上るのでした。